#甘い魔者 RUMI Interview by大石始 〜前編〜

RUMI on CPF,
#甘い魔者

ついにスタートしたPROJECT本編、このPROJECTを十二分にお楽しみいただくには、RUMIというCreatorについてあらためてinfoを整理する、Interviewという形でテキストにおこしていくことがまず有効なのではと考えました。なにしろ今年でSanagi Recordingsは10周年(!!)、これまでの活動を知っている方も、部分的にしか知らなかったという方も、ぜひこのInterviewを読んで、その魅力、Rootsを再確認していただければと思います!
Interviewを担当いただいたのは、大石始氏。氏が丁寧に、かつ鋭くRUMIさんに迫っていただいたこのInterview、ぜひお読み下さい!!

CPF事務局
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Sanagi Recordingsの初アイテムであるファースト・アルバム『HELL ME TIGHT』がリリースされてから、今年でちょうど10年。CREATIVE PLATFORM(以下CPF)の新たなプロジェクトとして動き始めたRUMIのニュー・アクション<#甘い魔者>は、<雨衣ルミ>なる謎の存在とのコラボレーション作品となった。
雨衣ルミの姿は、本プロジェクトの予告動画で僅かながら公開されている。妖艶なドレスを身にまとった夜の女、雨衣ルミ。キャッチコピーは<ヒトから出た甘み>――。スキルフルなラッパー、RUMIのオルター・エゴである雨衣ルミの源流を探るべく、彼女(たち)の多様な音楽的背景に焦点をあてながら話を訊いていくことにしよう。
<#甘い魔者>の世界観に迫るロング・インタヴュー、前半をお届けする。

<言葉から血しぶきが吹き出しているような歌>に心動かされる

――生まれはどちらなんですか?
「埼玉の草加市なんですけど、生まれてすぐ東京に来ちゃったので、草加のことは全然覚えてなくて。草加の後は東京の目黒。小6の途中から高1までは神奈川の川崎に住んでたんですけど、そこから目黒の学校に通ってたんですよ」
――じゃあ、地元となると目黒になるわけですか。
「そうですね。ただ、高校生のころも地元の友達とだけ遊んでいたわけじゃなかったし、いろんなところに住んでいたこともあって、<地元>っていう言葉がしっくりこないところがあって。(MC)バトルで<レペゼンする土地は?>とか聞かれると困っちゃうんですよ」
――先日、CPFにアップされたテキストによると、幼稚園の催し物で日野美歌さんの“氷雨”(82年12月のヒット曲)を歌ったそうですね。
「そうそう。<なんでもいいから、お父さんお母さんの前で得意なものを発表してみる>っていう会だったと思うんですけど……親が苦笑いしていたことは覚えてます(笑)」
――そのころから歌が得意だった?
「得意というか、単に好きなだけ。当時の歌謡曲、たとえば柏原芳恵とか小柳ルミ子が好きで……」
――フツーの幼稚園児は小柳ルミ子は聴かないですよね(笑)。
「なんでだか自分でも分からないんですけど、そのころから女の人の悲しい歌が好きだったみたいで……テレビで耳にしていたのかな?あと、お父さんの夜遊びについていったのが大きかったのかも」
――<お父さんの夜遊び>っていうとスナックとか?
「スナックはたまに。六本木とか新宿の盛り場に行くと、普段見ないような綺麗で派手なお姉さんがいるわけですよね。子供が珍しいから、そういうお姉さんが優しくしてくれたんです。そういう影響ももしかしたらあるのかもしれない」
――子供のころから夜の東京に触れていた、と。
「まあ、少しだけ。後から気づいたんですけど、バブルの六本木で子供のころに遊んでたんですよね」

interview1

――小学生になると、ノートにいろんなことを綴るようになったそうで。
「ワタシ、思いやりのない子供だったみたいで(笑)、なんでもズケズケ言っちゃって、結果的に友達を泣かせちゃう事件が多発していたんですよ。当時の自分はなぜそんなことになるのか理解できなくて、何を喋っていいのか分からなくなってしまった。それで、自分の気持ちをノートに書くようになったんですね。自分がやったこと・思ったことを書いてみて、<確かにこんなこと言われたらワタシもイヤかも>ということに気づいて……。あと、小学校6年生ぐらいのころに湾岸戦争があったんですね。当時は戦争って歴史上の出来事だと思っていたんですよ」
――過去の出来事であると。
「そうそう。<えっ、戦争やんの?>っていう。そのとき、子供ながらに<戦争が起きる!ヤバイ!>と思うようになって……周囲の大人に話しても<大丈夫だよ>と言われるばかりだし、先生に<戦争なんてやっていいんですか!?>と問いつめて困らせたり……当時は分からないことが多すぎて混乱してたんでしょうね」
――そういう感情を整理するため、自分の感情をノートに綴り始めたわけですね。
「うん、整理というか……とにかく吐き出していた感じ。お母さんに言っても分かってもらえないし」
――中学生になるとキーボードを弾きながら歌を歌っていたと。
「ワタシは三姉妹の末っ子なんですけど、上の2人ともピアノを習っていたから、家にピアノがあったんですね。それで自分でも弾きながら歌ってみよう、音楽をやってみよう、と思ったんでしょうね。でも、自分で歌詞を書いてみたらあまりにも生々しくて(笑)、恥ずかしくなって止めちゃったんです」
――RUMIさんもピアノを習ってたんですか?
「小さいころ、少しだけやってたんですよ。でも、中途半端で止めてしまって。弾こうと思えば弾けるんだけど、今でも楽譜は読めない」
――RUMIさんは中島みゆきさんからの影響をたびたび口にしてますよね。彼女の歌と出会ったのはいつごろだったんですか。
「ラップに出会うちょっと前の高校1年のころ、柏原芳恵とか工藤静香とか、昔好きだったものを思い返してたんですね。そうしたら、彼女たちの曲を作っていたのが中島みゆきだった(註:柏原芳恵の“春なのに”や“最愛”、工藤静香の“激情”や”慟哭”などは中島の作詞作曲)。それに気づいて、意識的に聴くようになったんです」
――中島みゆきさんのどこに惹かれたんでしょうね。
「うーん、なんだろう……中島みゆきの昔の曲ってメチャクチャ暗いものも多いんですけど、<強さ>を感じたんですよ」
――強さ?
「うん。寂しい歌や救いがない歌も多いけど、聴いてるとその思いの強さに勇気が湧くんです。端から見れば弱いんだけど、その<思い>は呪えるほどに強いというか(笑)」
――中島さんの歌に共感を感じていたわけでもなさそうですね。<この気持ち、分かる!>というのではなく。
「ああ、そうですね。共感ではなかったと思う。あとね、中島みゆきの歌って<背負ってる>ものがあって、その辛さとか影のあるものに昔から惹かれてたんだと思うんですよ」
――でも、RUMIさんが中島みゆきさんの歌を聴き始めた90年代半ばって、そういう重く暗いものって世の中の空気としてなかったですよね?
「そうですね。安室ちゃんとかが全盛期ですから。でも、ワタシは中島みゆきとか友川カズキ、三上寛みたいに<言葉から血が飛んでくるような歌>に心動かされることが多いんですよ。血しぶきが吹き出しているような歌というか」
――RUMIさんがお好きな面影ラッキーホールの歌からも血しぶきが吹き出してますよね。
「そうですよね。面影ラッキーホールの曲に“給料日さん”っていう曲があるんですけど、初めて聴いたとき、<このストーリー、知ってる!>と思ったんですね。なんでだろう?と思ったら、ワタシが知ってるエロ漫画のストーリーだったんですね」
――エロ漫画?
「そうそう。お父さんがやたらに漫画を持ってたんですよ。後から思うとセレクトが結構よくて、ワタシもお姉ちゃんも片っ端から読んでたんです。そのなかにあった一冊に、地味なサラリーマンが給料日後に一度だけ風俗に行って、初恋の女の子と同じ名前の子を指命する話があったんですね。面影ラッキーホールの“給料日さん”はそのストーリーを元にしてたんですよ。それで<このバンド、何なんだ!>と思って……」
――そう考えると、RUMIさんって子供のころから好きなものがあまり変わらないんでしょうね。
「そうなんでしょうね。大筋では変わってないのかもしれない」

<ラップだったらワタシも自分の話をしてもいいんだな>と思えた

interview2

――ヒップホップと出会ったのが16歳のころだそうですね。
「そうですね。高校に入ると同級生がよくパーティーをやっていて、DJを始める友達も一気に増えたんですね。それでワタシも<(雑誌の)『Fine』に載っていたから>という単純な理由で(西麻布YELLOWで行われていたイヴェント)<亜熱帯雨林>に遊びに行ったんです。その日はキング・ギドラとかライムスターもライヴをやってて、最後のTWIGYさんがフリースタイルで<上祐がどうこう>ラップしてたんですね。それを見て、<これって即興でやってるのかな?おもしろい!>と思って。音楽には中学生のとき一度挫折してたわけですけど、<これだったらできるかもしれない>という気持ちになって、そこからヒップホップの歴史や音楽を掘り下げていくようになったんです」
――<これだったらできるかもしれない>ってどういう感覚だったんでしょうね。
「かつてキーボードで作ったものを自分で録音して聴いたときはあまりの生々しさに恥ずかしくなっちゃったんですけど、ラップは生々しさ全開で、なおかつ格好よかった。だから、<生々しくてもいいんだ!>と思えたんでしょうね。中学生のときは<ワタシの言葉は音楽にはならないんだ>と思ってたんだけど。恋愛の歌や明日への希望を歌ったものが多いなかで、ラップは日常を歌っていたし、<ラップだったらワタシも自分の話をしてもいいんだな>と思えたんです」
――当時世間的に流行っていた歌に対してはどう思ってたんですか。違和感を感じていた?
「いや、違和感はなかったと思う。友達とカラオケに行ったらフツーに耳にしていたし、<自分がやる音楽とは別のモノ>という意識ですよね。ラップを始めてからは<ワタシがやってるのは流行のポップスとは違うんだ>と意識するようになりましたけど」
――これは後でじっくりお聴きしたいテーマでもあるんですけど、そういう意識が後に溶けていって、もともと聴いていたポップスとの境界線がなくなっていったときに浮かび上がってきたのが雨衣ルミの存在なのかもしれませんね。
「格好つけるのを少しずつ止めてきたんでしょうね。ラッパーだったら全力で格好つける格好よさもあって、若いころはそれに対する憧れもあったんですよ。でも、途中から違和感が生まれてきてしまった。ワタシは役者じゃないし、格好つけなくてもいいんじゃないかって。段々素直になってきて、境界線がなくなってきちゃったんでしょうね」
――格好つけることに違和感を感じるようになったのはいつごろ?
「何段階かあるんですけど……高校生のころは般若と2人でやってたんですよ」
――はい。
「彼と離れるときに第一段階があって。なんで<ワタシは音楽をやりたいんだろう?>と悩んで……それでバンドをやり始めるんです」
――当時はCORRUPTEDやENVY、54-71、灰野敬二さんがお好きだったそうですね。
「好きでしたね。ま、今も。18、9ぐらいのころ、ヒップホップと呼ばれるものがチキチキした音に変わってきて。当時はそういう音があまり好きじゃなかったんです。あと、ラップを始めたことで一気に友達が増えたんですけど、どうも<みんなでやる>ことに苦手意識があって。それで、ひとりプラプラと高円寺や下北沢のライヴハウス、シャカラ・レコードっていう下北沢のお店に通うようになるんです」
――じゃあ、当時やってたバンドはCORRUPTEDみたいな音?
「いや、全然違いました。バンドといっても打ち込み担当の人がひとり、ドラムがひとり、それとワタシが主な編成で。当時、ピアノやハープを弾いてたんだけど……ワタシ、何をやっても続かないんですよ(笑)。ラップだけが奇跡的に続いてる(笑)」
――わはは。
「楽器の練習もイヤになっちゃって、結局バンドで歌い始めたんですね。で、気づいたらそのバンドでもラップしてたんです(笑)。バンドも楽しかったんだけど、やっぱりひとりでラップしようと。でも、昔一緒にラップをやってた友達とも離れちゃってたし、どうしたらいいものか思い詰めてしまって。そんなとき、Jar-Beat Recordのasaさんに<そのまんまやったらいいんじゃない?>ってユルく言われてハッとして……最初の“蛹”はasaさんが出してくれたんです(註:Jar-Beat Recordから2000年にリリースされたasa&RUMI名義の12インチ“蛹”)」
――“蛹”の反響はどんな感じだったんですか。
「昔のワタシを知ってくれていた人が<あいつだ!>って戻ってきたりして……でも、<RUMIがついにイカれた!>みたいな反応をした人もいましたよ(笑)。高校生のときはわりとスタンダードなラップをしていたのに、久しぶりに見てみたら“蛹”みたいなことになってたから。でも、そういう反応ににワクワクしたんですね。それで私もリリースしていこうと」
――最初のアルバム『HELL ME TIGHT』が出たのが、ちょうど10年前の2004年。
「“蛹”からあのアルバムをリリースするまでの4年間でもやっぱり迷っていたし、苛ついていたんですね。他人はもちろん、自分自身にも苛ついていて……人付き合いも今以上にうまくできなかったし、当時内なる気持ちを話して分かってくれるような友達もいなくて。でも、(リリックを)書くことは続けていたんで、とにかく吐き出さなきゃいけないだろうと。とにかくリリースをして、自分の気持ちに反応してくれる人を捜すしかないなと思ったんですね」
――で、『HELL ME TIGHT』はラップ再開以降の思いを吐き出した作品だったと。
「うん、まさに<吐き出した>という感じのアルバムだったと思います」
――3年後の『Hell Me Why??』(2007年)だと世界観がガラッとカラフルになりますよね。
「ファースト・アルバム・リリース後のライヴでは、イヴェントの空気を沈めちゃうことが連続して、どうしたものか?と思ってたんですね。それで、次のアルバムは聴きやすいものにしたくなってきて。あと、POP GROUPからリリースの話をもらって制作を進めていくなかで、見せ方に関するアドヴァイスをもらったり」
――いま思い返してみると『Hell Me Why??』に関してはどうですか。
「あのアルバムは結構好きですね。ファーストはイントロの段階で苦しくなる(笑)。これを聴いていてくれた人がいるかと思うと本当にありがたくて」
――2009年には3枚目の『Hell Me Nation』が出ますが、徐々に歌唱法がラップから歌寄りになっていった印象があるんですよ。
「自分としては特に意識の変化はないんですけどね。般若とやってたころから歌ってましたし、自分のなかで(ラップと歌の)境界線はもともとなかったんですよ。ただ、ライヴの場合、<(フロアに声が)聴こえない>というのが一番イヤなんですけど、歌っぽくしたほうが声が通るし、歌詞がよく伝わるような気はしてました。それで歌い方も変わっていったのかもしれない。ただ、今作ってるのは<歌>と<ラップ>を分けて作ってるんですけど」
――前は歌とラップの境界線がなかったんだけど、そこに線を引いたときに浮かび上がってきたのが雨衣ルミという存在だったと。
「そうですね」

<架空の物語を歌う音楽>のほうに鬼気迫るものがあった

――雨衣ルミとしての“たまねぎ”という曲が公開されたのが2012年の11月でしたよね。そもそもどのような経緯で雨衣ルミという存在が生まれたんでしょうか。
「もともと何の計画性もなかったんですよ。時間が空くとひとりでスタジオに入っていたんですね。2012年の秋だったのかな、スタジオに置いてあるキーボードとかドラムで遊んでたんですけど、“I miss you”という曲ができたのでMTRで録ってみたんですよ。で、録ったものをそのまま知人のとこに持っていって、みんなに聴いてもらったんですね。てっきり笑われるかと思ったら、<なんだコレ!絶対にやったほうがいい!>って言ってくれて……」
――何気なく録った音源がラップではなく、歌だったのはどうして?
「なんでだったんだろう?……恋わずらいだったのかな(笑)。普段も家のなかでだいたい歌ってるんですよ、昔の歌謡曲なんかを。その延長で録ってみたんですね。だから、<歌を録るぞ!>と誰かとスタジオに入っていたら録れなかったと思う。で、デモを聴かせた人たちも<絶対にやったほうがいい!>って言ってくれたし、別の名前で何かやってみようかなと思い始めて」
――なるほど。
「最初に<雨衣ルミ>というキャラクターの設定を考えたんですよ。そこがブレちゃうと冷めちゃうんじゃないかと思って。で、雨衣ルミという歌手が生きてきた時間を体験してみよう!ということで、スナックに入ってみたんですよ(笑)」
――わはは、フィールドワークとして。
「そうそう(笑)。自分が子供のころ好きだった歌って同世代だと共感してくれる人がなかなかいないんですけど、スナックにはいたんですよ(笑)。あと……ワタシ、お座敷小唄が好きなんですよ」
――へえ!そうなんですか!
「お座敷小唄と歌謡曲が混ざったものってあるじゃないですか。そういうものも大好きだし、島倉千代子の“恋しているんだもん”(61年)とか……スナックではあの曲で中高年がメチャクチャ盛り上がってたんですよ」
――しかし、RUMIさんがお座敷小唄をお好きだとは思わなかったな。
「そうですよね(笑)。<二号さん>の世界観も好きですし……小唄じゃないですけど、子供のころから“東京音頭”なんかも好きでしたよ。盆踊りでひとりで踊りすぎて、男子にバカにされるタイプ(笑)」
――そういう記憶がスナック体験によって蘇ってきちゃったわけですね。
「想像を超える現実と夢の両方の世界がスナックにはあったんですよ。ワタシのなかではその発見が大きくて、雨衣ルミという存在とその世界を重ね合わせてみたいと思うようになったんです。もともと自分のなかでは<自分の日常を歌う音楽>と<架空の物語を歌う音楽>という線引きがあって、ラップに出会ったとき、ワタシは日常に近い表現としてラップを選んだんですね。でも、自分が年を重ねていったら、<架空の物語を歌う音楽>のほうに鬼気迫るものがあって、どこかで入れ替わってしまったんです」
――RUMIさんご自身のさまざまな心境の変化や環境の変化のなかで、雨衣ルミという存在がポロッと生まれてしまったわけですね。
「うん、本当にポロッと出た感じ(笑)。それで5曲ぐらい一気にできたんですけど、それはあくまでもワタシのつたないピアノで録音しただけなので、今はそれをアレンジャーの方にアレンジしてもらってます」
――それにしても、アルバムとしては結構久しぶりですよね。『Hell Me Nation』が5年前ですもんね。
「5年か……あのときとは自分も周りの環境もだいぶ変わったなぁ……」
(後半に続く)
(インタヴュー・文/大石始)

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